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その他現代訳、目次

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その他現代訳、目次 掲載は順不同です 戦国エピソード集『常山紀談』より 上杉謙信 1739-70年(江戸時代中頃) 明治日本海軍 「連合艦隊解散の辞」 1905(明治38)年12月21日 樋口一葉の手紙 「伊東さんへ」 1894(明治27)年3月 「私の心の真ん中には」 1894(明治27)年4月末 『徒然草』より 「猫又」 89「奥山に猫またといふもの」全文 「うるり」 60「真乗院に盛親僧都とて」全文 1300年代中頃 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」 文語体部分全文 1912(大正1)年10月 初稿発表 森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」原案 「細川家の香木」 神沢杜口『翁草』より 1700年代後半 『堤中納言物語』より 虫を愛する姫君 「蟲愛づる姫君」全文 1100年代以降 柳田国男 『遠野物語』より 迷い家、山の麗人、初版序文その他 1910(明治43)年刊行 松尾芭蕉 象潟その他 『おくのほそ道』より 1702年 与謝野晶子 「君死になさることはいや」 「君死にたまふことなかれ」全文 1904(明治37)年9月発表 柚木天白神社来歴碑 2000(平成12)年12月 ブログトップへ

上杉謙信伝『常山紀談』より

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戦国エピソード集『常山紀談』より抜粋 ※人名年次等、原文は変更せずにそのまま訳しました ※地名等、一部を現名に置き換えております(例:越後→新潟) ※《小見出し》と(カッコ内補足)は筆者によるものです 常山紀談(じょうざんきだん) 著者:湯浅常山(ゆあさじょうざん) 成立:1739-1770年(江戸時代中頃) 内容:戦国武将の様々なエピソード 構成:全30巻470話 《参照》 岩波文庫『常山紀談』上中下全三巻 上杉謙信 《来歴》 1530年:生誕、新潟守護代長尾家 1543年:成人 1548年:長尾家相続、上越春日山入城 1550年:新潟統一 1552年:京都訪問 1553年:川中島合戦「第一次」 1555年:川中島合戦「第二次」長期対陣 1557年:川中島合戦「第三次」 1561年:上杉家相続「関東管領」就任 1561年:川中島合戦「第四次」全面対決 1564年:川中島合戦「第五次」早期撤収     ~関東北陸に進出~ 1576年:富山制圧 1577年:能登攻略 1577年:手取川合戦、織田撃退 1578年:逝去、48才 《名歴》 1530年:長尾虎千代(幼名) 1543年:長尾景虎(成名) 1561年:上杉政虎(関東管領上杉憲政から) 1561年:上杉輝虎(将軍足利義輝から) 1570年:上杉謙信(仏名「不識庵謙信」から) 《米山越》  長尾景虎(謙信)の幼名は猿松という。兄を三郎という。  猿松は乱暴者だったので、父為景の意向に合わなかった。これは継母の讒言によるものだという。それで出家しろということになり、新潟北東部の栃原浄安寺に追いやられた。金津新兵衛が供をして上越~柏崎間の米山越にかかる時、猿松は八才なので徒歩の侍が背負って山を登り、峰にあるお堂に降り立ち、弁当箱のようなものを出して食べさせた。  猿松は遥かに直江津(上越)の市街地を眺め、少し涙ぐんで、自分はこうして落ちぶれたことがくやしい、いつか戦いをして志を遂げたなら、この山に登ってあの町を目の下に見下ろそう、そういう戦いの場所なのだ。  こう言ったので、乳兄弟の本條美作守も舌をふるい、その言葉を忘れないでください、と喜んだ。 《天才児》  こうして猿松は九年間寺にいたが、僧侶になるつもりはなかった。天文14(1545)年、父為景が富山で戦死した。跡取りの三郎(長尾晴景)は愚弱で越後の人心が離れ、各...

虫を愛する姫君

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虫を愛する姫君 『堤中納言物語』より「蟲愛づる姫君」 千年くらい前の短編小説です。 描写はコミカルですが、とても素敵な女性だと思います。  チョウチョを愛するお姫様が住むその隣には、監察官大臣のお嬢様。気が利いていて尋常 でない人なので、両親は大切にすること無限であった。  このお姫様がこう言う。 「みなさんが『蝶よ花よ』とほめたたえるのが無意味でおかしいわ。人間には真実がある。根本を追求する気持こそが素晴らしいのだ」  ということであらゆる虫のおっかないのを採集して「これが成長するさまをみる」といって色々な籠や箱に入れさせている。  なかでも蝶の幼体「カワムシ」が「考え深い様子をしているのがもうニクイ」ということで、朝夕と髪を耳に挟んで、虫を手のひらに乗せてうつ伏せて見守っている。小さな子たちは怖がって戸惑うが、男の子でものに怖がらず言っても聞かないのを呼び集めて、箱の虫たちを取らせ、名前を質問し、まだないものには名前を付けて盛り上がっている。 「人はみな化粧をするところがあるわ、よくない」と言って眉毛などは抜かない。  お歯黒もやはり「うるさい、きたない」と言ってつけなさらん。  しらしらと笑いつつ、この虫たちを朝も夜も愛しておられる。  皆が怖がり恐縮して逃げるとこの方はマジでなあ、ノノシるんだ。そうやって怖がる者には「おかしいだろ傍若だよ」と言って真っ黒な眉毛でなあ、睨んでくるからもうどうしたらいいのかわからん。  親たちは「マジ怪しく異様でおられるよ」と思うけれど「心に決めたことがあるのか。どうなってるのか」と思って「言って聞かせれば深刻になってしまう。おそれ多いことだ」とそれも恥だと思ったのだ。 「そうはいっても評判は心配だ。人は見ておかしいことが好きなのだ『見苦しいカワムシを面白がっているんだ』と世の人が聞くのもえらく気になる」  それで話をすると、 「くるしゅうない。万物を調べて最後を見れば現象には理由があるのだ。じつに初歩的なことです。カワムシが蝶になるのですわ」  その姿になってゆくのを、取り出して見せた。 「衣服といっても人間が着るもの。カイコがまだ羽根を付けないのを無理に出して、それが蝶になってしまったのなら、じつに半端な袖のような扱いをしたことになる。罪なことなのでは」  とこうおっしゃるので言い返しようもない。あかんわ。  さすがに親たち...

樋口一葉の手紙「私の心の真ん中には」

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差出人:樋口夏子(1872-1896) 受取人:伊東夏子(1872-1946) 1894(明治27)年4月末  先日あなた様のお言葉で、友情が至深であるというお話をうかがったことはあったが、まさかそれほどではなく私は素通りでありました。それで昨日のお歌で「いぶせきなかを」とおっしゃっていたあれを拝見しました時に、私は本当に涙を流し申しました。  うぬぼれの強さだよ、とお笑いになるならそれまでですが、嘘はおっしゃらなくてあなた様のご本心から出たものだと思えば、うれしいようなもったいないような、何とも言えずに悲しいようにも思われて、ただただ私はあなた様が可愛くて可愛くて、お手紙を抱いてむせび泣いているのであります。  笑わないでほしい。花色の衣裳も浮世の恋愛も知らん、枯れた木死んだ灰のような私にもこの涙はある、思えば我が恋の本体はお前様でございます。自分は社会の現実を知り得たとかどうなのか、でもだからこそなのか、今日からの小説あるいは歌や文章のどれにおいても、あなたの面影を胸に浮かべて書くことを、許してほしい。  私はあなたの名前を思い出す時、心が生きるように思われる。だからなのです。 (原文)  去る比お前様の御言葉に友情の至深なる物語を承りたることはありしがよもそれ程にはなく私はけなしたるものに御座候、さても昨日のお歌にいぶせきなかをと仰せられたるあれを拝見いたしたる時に私は真に涙をこぼし申し候、うぬぼれの強さよと笑わせ給わばそれまで、偽りはのたまうまじく御前様の御実情より出たるものと思えば嬉しきようなもったいなきような何とも言われず悲しきようにも思われてただただ私はお前様の可愛く可愛く御文を抱きてむせび泣きたる御座候、笑わせ給うな花色衣浮世の恋は知らで枯木死灰のごとき我にもこの涙は御座候、思えば我が恋の本尊はお前様に御座候、我は浮世の誠をみとめ得たるにもこそ候え、今日よりの小説もしくは歌文章の何方にも君が面影を胸に浮かべて筆とるをば許し給え、私はお前様の御名を思い出るとき心の生きるように思わるればに御座候。 樋口夏子:筆名「一葉」私塾『萩の舎』で伊東と知り合った 伊東夏子:『萩の舎』塾生、母親は徳川鷹匠由来の老舗オーナー お読みくださり、ありがとうございました🙇 (その他現代訳、目次へ) ブログトップへ

樋口一葉の手紙「伊東さんへ」

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伊東夏子(1872-1946):樋口(一葉本名は夏子)と同年齢同名、私塾『萩の舎』学友、クリスチャン 1894(明治27)年3月  浮世に才子というのものがいる。言葉巧みに文面美しく、仕事の上級者だからそれを見る十人のうち九人までが本当だと信じて、楽しく頼りになる人だと言うみたいです。わたしのように生い茂る草むらの露にすがり最後は廃棄場の隅に捨てられて、世間で何かできる知恵も持たん者は、こうだと気持を言葉にすぐは言いにくいけど、黙々として過ぎる月日の心からは愛も信も離れず、でも表にあらわれないからこそ今回のようなお恨みも頂くんでしょう。  あなたがお思いになる十分の一も私に思う心がないとは、なんて情けないお言葉なの。知っていなさるように頑なな私は、この広い世界に同じ気持の友もなくてあなた一人だけをと思うのに、そのあなたにさえこんなに疎まれてしまったと思うと、私の運命は本当にはかない。  あなたは裕福な家にお生まれになり、私は貧しさのなかで育った。もともとこれすら違うのに学ぶところも違っていたから、あなたは宗教の道に入り私は虚無の空理に酔って骨を荒野にさらそうとしている、その時に、普段の持論が違うからといってあなたは振り向きもしないのか。  私は宗教家であるあなたが生涯を道に捧げて全うされることを望む。選ぶ道が違っていても信友は信友だ、どこに隔てる気持ちがあってなおざりにできるのか。あなたの病床を訪ねなかったのは私の間違いだがこれは間違いなのだ、私の病をお尋ねになるあなたに深い気持ちがあって尋ねない私を気持ちが浅いとお責めになるのはむごくないか。私はあなたに(文字不詳)浴していたこともあり本来こんなことを親友でない人に話せるだろうか、あるいは私を軽い薄い浮かれたやからだとみなしてそいつが慈愛深いあなたの心を騙したのだと思うのか。あなたを騙せるほどの才子ならあなたに恨まれるような愚かなこともしないだろう。  私は馬鹿だ。自分の気持ちを書くことも話すこともできないような馬鹿野郎なのだ。それならそれでいい、でも心は誰にも負けない信じてほしい。 (原文)  浮世に才子というものあり、言葉巧みに文辞美しく仕業の上手なれば見る人十が九までが誠と信じて嬉しく頼もしき人と申すぞかし。我がごとき八重もぐらの露にすがり果ては塵塚のすみに捨てられて浮世にほどこすべき智恵も持たぬ身はかくと思...

徒然草「うるり」

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60「真乗院に盛親僧都とて」全文  真乗院に盛親僧都という、そうとうに偉いお坊さんがいた。  イモガシラというものが好きで、大量に食べていた。説話会の席でも、大きな鉢にうず高く盛って膝元に置いて、食べながら同時に本も読んでいた。  具合の悪いところがあると、七日目十四日目などは療養だといって籠もっていて、良いと思った芋頭を選んで特別に沢山食べて、あらゆる病気を治していた。他人に食べさせることはなく、ただ一人だけで食べていた。  きわめて貧しかったので、その師匠が、亡くなる直前に500万円と宿泊所一つを譲っておいた。それで宿泊所を250万で売って、あわせて750万円を芋頭の代金と決めて、京都にいる人に預けておいて25万ずつ取り寄せ、芋頭を不足なく食べていて、別の用途に使うこともなかったが、そのうちに代金はゼロになった。 「750万分のものを貧しい境遇に用意して、このようにはからってあげたのだ。ほんとうに尊い求道者だよ」と、人はそう話しました。  この僧都が、ある法師を見て「白うるり」という名前を付けたのだった。 「とは何もので」と人がたずねると「そんなのをおれも知らん。もしあるとすればその僧の顔に似てん」と言ったのだ。  彼は容姿が良く、体力があり、食べる量が多く、書筆と学問と弁論が優秀で、宗派のトップ「法燈」なので、寺院内でも重要視されていたのだが、世の中を軽視している変り者であって、何事も自由にしてほとんど他人に従うということがない。  重要な行事に出席してもてなしの膳などにつく時も、皆の前に配膳が済むのを待たず、自分の前に配膳されればそのまま一人で食べていて、帰りたくなれば一人でツと立って行ってしまう。  食事の時間帯と食事不可の時間帯にしても、他人と同じように決まった通りには食べない。自分が食べたい時は夜中でも朝方でも食べて、眠たければ昼でも閉じ籠もって、どんな重大事でも他人の言うことは聞き入れない。  目が覚めていればいく晩でも寝ずに、精神をととのえて口をすぼめて深呼吸、しながら歩くとかだ。  尋常ではない有様なのだが、人には嫌われず、何事でも許されていた。 「徳が極まっていた」ということなのだろうか。 (原文) 60段 真乗院に、盛親僧都とて  真乗院に、盛親僧都とて、やむごとなき智者ありけり。芋がしらといふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きな...

徒然草「猫又」

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徒然草(つれづれぐさ) 作者:吉田兼好(1283頃-1352以降) 成立:1349年頃(南北朝時代、足利尊氏44才、作者66才頃) 89「奥山に猫またといふもの」全文  山奥にはネコマタというものがいて「人間を食べるらしい」と誰かが言った。  そして「山でなくても、このあたりでも猫が年をとって猫又になって、人を狩ることはあるだろうに」と言った人もいた。  それで、京都行願寺の付近に、何のアミダブツ宗派なのか、リレー詩「連歌」をしている僧侶姿の人がいた。聞いて「一人歩こうという境遇なら気を付けなくてはいけないな」と思っていた。  ちょうどそのころに、ある所で夜遅くまで詩の会があって、ただ一人で帰ってゆくと、小さな流れの切れ目のところで話に聞いた猫又、正確に足元にスッと寄ってきて、そのまま抱き付きながら首のあたりに食い付こうとする。  気が遠くなり体も動かず、防ごうとするが力もなく足も立たず、流れに転げ入って「助けてや、猫又やよ、猫又やよ」と叫ぶので、家々からタイマツを燃やして走り寄って見ると、このあたりで見知ったお坊さんだ。 「こりゃなんと」と水の中から抱き起こしてみると、詩の賞品としてもらった扇や小箱などをふところに持っていたけれど、それも水に浸かっていた。  奇跡的に救助された状態で、這い這い家に入ったのでした。 「飼っている犬が、暗くても主人を認識して、飛び付いていた」とのことです。 (原文) 八十九段 奥山に猫またといふもの 「奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる」と人のいひけるに「山ならねども、これらにも猫の経あがりて猫またになりて、人とることはあなるものを」といふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の行願寺のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかむ身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜ふくるまで連歌にてただひとり帰りけるに、小川のはたてにて音に聞きし猫また、あやまたず足のもとへふとより来て、やがてかきつくままに頚のほどを食はむとす。肝心も失せて、防がむとするに力もなく、足も立たず、小川へころび入りて「助けよや、猫またよや、猫またよや」と叫べば、家々より松どもともして走りよりて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こはいかに」とて川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物取りて扇小箱など懐に持ちたりけるも水に入りぬ。希有にして助...