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細川家の香木

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神沢杜口「細川家の香木」 同著『翁草』所収 森鴎外「 興津弥五右衛門の遺書」のもとになったエピソードです  細川三斎忠興(1563-1646)は武勇において最も世間が認めているが、それだけでなく華道をたしなみ父である幽斎(藤孝)の風流におさおさ劣らず、茶道に心を寄せてまことに優しい大将である。  長崎に外国船が入港した時、現地に家臣を派遣して珍器を求めさせた。一年のあいだ興津弥五右衛門という武士に相役を一人付けて出向させていたところ、尋常でない伽羅の大木が渡来した。本木と末木の二つがある。  そのころ伊達政宗からも舶来品を手に入れるために担当者が来ていたが、その伽羅の本末を取り合って忠興の担当者と互いに競って値段を釣り上げる。興津の相役はこれを気の毒に思い、どうあっても値段があまりにも高額なのでいわば同木のことなので末木のほうにしようと言い、興津はぜひ本木を手に入れようと言いつのって口論になり、その相役を討ち果たして遂に本木のほうを手に入れて熊本に帰り、右の出来事を申し上げて切腹を願う。  忠興の言うに、私への奉公のために相役を討ったのならば切腹すべき理由はないとその相役の子を呼ばれ、決して意趣を残してはならないと自分の前で興津との盃を申し付けられ、互いに無事に勤務した。  その後に忠興の逝去があり、万治(1658-61)寛文(1661-73)の頃の三回忌に、弥五右衛門は京都の船岡山の西の麓でいさぎよく殉死する。大徳寺の清岩和尚が引導した。今もその山の麓に一山の古墳が残っている。  この興津が手に入れてきた伽羅は類のない名香で、忠興は特別に秘蔵し名を初音と付けていた。 その心は。 「きくたびに、珍しければホトトギス、いつも初音の心地こそすれ」 この古歌によった。  寛永三(1626)年九月六日二城の錦城に後水尾天皇が訪問したことがあった。その時、忠興の息子である忠利にあの名香を所望されたのですぐに献上した。天皇は深く感動されて白菊と名付けられた。 「類いありと、誰かはいわん末匂う、秋より後のしら菊の花」 この歌の心だという。  また伊達政宗公は役人が枝先を手に入れてきたのをとても残念がられたのだが、さすがに名香のことなので常にこれを賞賛し、柴船と名付けられた。 「世の中の、憂を身につむ柴船や、たかぬさきよりこがれ行くらん」 この歌の心なのだろう。  その名前は様々な...

興津弥五右衛門の遺書、森鴎外

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興津弥五右衛門の遺書 (文語体部分全文) 作:森鴎外(もりおうがい:1862-1922)初稿発表1912(大正1)年10月 原案:神沢杜口(かんざわとこう:1710-1795)『翁草』第6巻「細川家の香木」(1772-91年)  わたくしこと明日は年来の宿望あい叶いまして、妙解院(細川忠興)殿のお墓前において首尾よく切腹いたします事とあいなりました。それならば子孫のためにその経緯を書き残しておきたく、京都にある弟又次郎の宅にて筆をとりおります。  わたくし祖父は興津右兵衛景通(かげみち)と申します。永正11(1515)年に駿河国興津で生まれ、今川治部大輔(義元)殿に仕え、同国興津の清見関に住居いたしました。永禄3(1561)年5月20日に今川殿が戦死あそばされました時、景通もお供いたしました。年齢41才でした。法名は千山宗及居士と申します。  父の才八は永禄元(1558)年に出生しまして、3才にして父を失い、母の手で養育されまして人となりました。壮年にいたって弥五右衛門景一(かげかず)と名乗り、母の親族である西兵庫播磨国の人、佐野官十郎方に仮居いたしておりました。さてその縁故をもって赤松左兵衛督(広秀)殿に仕え、天正9(1581)年に千石を頂きました。13年4月に赤松殿が阿波徳島国を併せ領せられましたのにいたって、景一は三百石を加増され、阿波郡代となり、同国渭津(いのつ)徳島に住居いたし、慶長の始めまで勤続いたしました。  慶長5(1600)年7月に赤松殿は石田三成に加担いたされ、近畿山岳丹波国の小野木縫殿介と共に北京都丹後国の田辺城を攻められました。当時田辺城には松向寺(細川二代忠興)殿がお立て籠もりあそばされておりましたところ、神君(徳川家康)が上杉景勝を討たせなさるので、三斎公も随従あそばされ、あとには泰勝院(細川初代藤孝)殿がお留守あそばされました。  景一は京都で赤松殿の屋敷にあった時、烏丸光広卿と知り合いにあいなっておりました。これは光広卿が幽斎公の和歌のお弟子で、嫡子の光賢卿に松向寺(忠興)殿ご息女の万姫様をめあわせておられましたからであります。さて景一は光広卿を介してご当家のご父子ともお心安くあいなっておりました。  田辺攻めの時、関東においであそばされました三斎(忠興)公は、景一の外戚の従弟である森三右衛門を使者として田辺に差し立てられました。森は...

柚木天白神社来歴碑

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柚木天白神社来歴碑  天白社はJR見延線柚木(ゆのき)駅の駅前にある神社です。改札を出て右手、二車線の県道396号を渡ったところにあります。県道のこの部分は旧東海道でもあります。  文語体で神社を紹介する石碑は、とても美しく磨かれていました。 《碑文訳》 村社、天白神社 位置、柚木字本田二〇六番地 境内、二二八坪 明治八(1875)年二月十八日付をもって村社 由緒、棟札の写し 天白尊宮を奉じ修復。五穀豊穣 天正十三(1585)年、本社殿を次兵衛が造営 慶長十八(1613)年、寛永十九(1642)年、寛文十(1670)年、修復する。 興惣兵衛と次兵衛、小兵衛と氏子一同  大昔の柚木村は草深い所で、長さ一寸八分(1 ⅛寸、約3.33cm)の米が三粒降ってきた。それでその場所に社を一つお祀りして「天白」と名付け、その田を「初穂田」という。いまでも存在して、毎年その田の米を神前に供える。  土地の人であった外木又兵衛は、古い文書類と共に下総の銚子近辺に移転した。年代は不詳である。ただし近年にいたっても、外木又兵衛の子孫は毎年この村に来て、初穂田の所有者である久保弥平の自宅に立ち寄り、天白社を祀るのを慣例としていた。  本社殿の前に一丈(約3m)を超える古井戸がある。  初祭りの年に村民が地面を掘ること数十尺(約3m× X) そういうところ、水が湧き出した。それで「氏神は井戸を嫌う」といわれている。村内に他に井戸はなかったが、この時から疫病の流行を予防するために各家で井戸を掘り、旧来の慣習を破ったという。 所有耕地は、反で数えて四反六畝(せ)十七歩(ぶ)である 平成十二(2000)年十二月吉日。久能是雄、奉納 《原文》 村社 天白神社 位置境内 柚木字本田二〇六番地二二八坪 明治八年二月十八日付ヲ以テ村社 由緒 棟札ノ寫 奉修覆天白翁宮五穀豊穣 天正十三年本社 次兵衛 造営 慶長十八年 寛永十九年 寛文十年  修復ス興惣兵衛次兵衛 小兵衛氏子 大古柚木村草深キ所ニテ長サ一寸八分ノ米三粒降リ来ルヨッテ其ノ地ニ一社ヲ祀リ天白ト名付ケテ其ノ田ヲ初穂田ト云フ 今尚存在シテ毎年其ノ田ノ米ヲ以テ神前ニ供フ 郷士外木又兵衛古書類ヲ携ヘ下総ノ國銚子辺ニ移転ス年代詳ナラス 但シ近年ニ至リテモ外木又兵衛ノ末孫毎年当村ニ来リ初穂田ノ所有人久保弥平宅ヘ立寄リ天白社ヲ祭ルヲ例トセリ本社前ニ三丈余ノ古井...