上杉謙信伝『常山紀談』より
戦国エピソード集『常山紀談』より抜粋
※人名年次等、原文は変更せずにそのまま訳しました
※地名等、一部を現名に置き換えております(例:越後→新潟)
※《小見出し》と(カッコ内補足)は筆者によるものです
常山紀談(じょうざんきだん)
著者:湯浅常山(ゆあさじょうざん)
成立:1739-1770年(江戸時代中頃)
内容:戦国武将の様々なエピソード
構成:全30巻470話
《参照》
岩波文庫『常山紀談』上中下全三巻
上杉謙信
《来歴》
1530年:生誕、新潟守護代長尾家
1543年:成人
1548年:長尾家相続、上越春日山入城
1550年:新潟統一
1552年:京都訪問
1553年:川中島合戦「第一次」
1555年:川中島合戦「第二次」長期対陣
1557年:川中島合戦「第三次」
1561年:上杉家相続「関東管領」就任
1561年:川中島合戦「第四次」全面対決
1564年:川中島合戦「第五次」早期撤収
~関東北陸に進出~
1576年:富山制圧
1577年:能登攻略
1577年:手取川合戦、織田撃退
1578年:逝去、48才
《名歴》
1530年:長尾虎千代(幼名)
1543年:長尾景虎(成名)
1561年:上杉政虎(関東管領上杉憲政から)
1561年:上杉輝虎(将軍足利義輝から)
1570年:上杉謙信(仏名「不識庵謙信」から)

《米山越》
長尾景虎(謙信)の幼名は猿松という。兄を三郎という。
猿松は乱暴者だったので、父為景の意向に合わなかった。これは継母の讒言によるものだという。それで出家しろということになり、新潟北東部の栃原浄安寺に追いやられた。金津新兵衛が供をして上越~柏崎間の米山越にかかる時、猿松は八才なので徒歩の侍が背負って山を登り、峰にあるお堂に降り立ち、弁当箱のようなものを出して食べさせた。
猿松は遥かに直江津(上越)の市街地を眺め、少し涙ぐんで、自分はこうして落ちぶれたことがくやしい、いつか戦いをして志を遂げたなら、この山に登ってあの町を目の下に見下ろそう、そういう戦いの場所なのだ。
こう言ったので、乳兄弟の本條美作守も舌をふるい、その言葉を忘れないでください、と喜んだ。
《天才児》
こうして猿松は九年間寺にいたが、僧侶になるつもりはなかった。天文14(1545)年、父為景が富山で戦死した。跡取りの三郎(長尾晴景)は愚弱で越後の人心が離れ、各地を敵に奪われたりしたので、猿松は父の弔い合戦をしようと思い立った。
宇佐美定行(定満)と話して天文15(1546)年の正月に十八才で元服し、平三景虎と名乗り、栃尾城(長岡)に旗を揚げた。三郎がそれを聞いて長尾政景(分家筋)の軍勢七千人を送った。
景虎は櫓にいて、敵は今日の夜に引き返す雰囲気だな、と言った。定行が聞いて、はるばる攻めて来たのにそのまま帰るんですかね、と言った。景虎が言う。敵に物資がなく長期包囲の方針ではない、退却するところを叩けば間違いなく勝つ。定行も「そうだな」と夜中に出撃した。じっさい政景軍は混乱して敗北した。
三郎がまた立ち向かった。景虎は柿崎(上越20㎞北東)の下浜に着陣して三郎を破った。三郎が上越の町を目指して撤退する時に、景虎は米山の東坂本で、おれ眠気がしてきた、休んでからあとで追っかけてやってやろうよ、と言って小屋に入った。定行がありえない、すぐ追撃すればこれぞ破竹の勢いですぞといっても高いびきでお眠りになっているのでこんなチャンスを逃してるよ、とみんなで文句を言った。
しばらくして景虎はつと起き上がり、三郎の軍勢は山を三分の一むこうに越えたと思う、さあ追撃だ、といって馬に乗り法螺貝を吹かせ、亀破坂で頭上から追撃して大勝利した。
しばらくして景虎はつと起き上がり、三郎の軍勢は山を三分の一むこうに越えたと思う、さあ追撃だ、といって馬に乗り法螺貝を吹かせ、亀破坂で頭上から追撃して大勝利した。
定行が、今日退却中を撃つべき時にうそ寝をされていたのは、山を追い上ると敵を上に受けるのでメリットがない、敵が下り坂になって引いて立っているのを撃とうということなのだ、これは重臣達がかなうものではない、わずか十八才だ、戦いにおいて誰が肩を並べられるだろうか、と語った。
《私市城》
武蔵国の私市城(加須市騎西城)を囲んだ。背後に大きな沼のある堅固な土地だ。本丸が外から見えるようにつくられている。巡回して見ていると、第二郭への移動通路の橋がスノコで造られていて「地白」の帷子を着た、人のような影が水に映って見えた。白地に紋を黒く染めた、当時の女性に多い衣装だったという。これを三度見た。
《私市城》
武蔵国の私市城(加須市騎西城)を囲んだ。背後に大きな沼のある堅固な土地だ。本丸が外から見えるようにつくられている。巡回して見ていると、第二郭への移動通路の橋がスノコで造られていて「地白」の帷子を着た、人のような影が水に映って見えた。白地に紋を黒く染めた、当時の女性に多い衣装だったという。これを三度見た。
それなら本丸には人質の女性と年少者を収容しているのだと推察し、そのあと柿崎和泉(景家)に指示して正面を攻撃させた。城内では先をあらそって防戦した。その隙に近隣の民家を解体し、筏に組んで後方の沼に乗り入れ、声をあげ喚き叫んだ。
本丸の女性と年少者達はどえらく驚き、第二郭へと逃げ惑った。正面で防戦していた兵達は、これは内通者がいて本丸が破られたのかと思い、自害し投降した。作戦により少ない労力で、すぐに城は落ちたのだった。
《三楽》
北条と武蔵の忍で対陣した。太田資房三楽が北条に通じた。これを聞いてただ一騎で三楽の陣に行き、三楽の三男十二才をひしとつかまえ、よく育っているよ、さあわが子にしよう、と連れ立って帰った。三楽の兵達はその猛々しさと威圧感に恐れて手を出すこともなかった。
《三楽》
北条と武蔵の忍で対陣した。太田資房三楽が北条に通じた。これを聞いてただ一騎で三楽の陣に行き、三楽の三男十二才をひしとつかまえ、よく育っているよ、さあわが子にしよう、と連れ立って帰った。三楽の兵達はその猛々しさと威圧感に恐れて手を出すこともなかった。
これによって三楽も、心から臣従したという。
《川中島合戦》
永禄4(1562)年7月、山梨にいたスパイ達が新潟に帰った。長野では二心のある武将が多く、五月上旬に信玄が川中島に行って死刑にした。それで疑心を抱いた者が多かった。また和利ヶ嶽の戦闘では死傷者が多かった。
謙信は言った。三軍の災いは疑いから生まれるという、これが一つ。疲れに便乗するべきだ、これが二つ。
8月になって軍を川中島に出すぞ、と現場指揮者を全員招集した。それぞれが作戦を聞くと、考えている事を書いて出した。上中下の三等級に分け、下の作戦を使おう、と言うのでそれはどういうことなのでしょうか、と怪しむと、謙信が言った。
上の作戦はすでに敵が推察しているところで、我々を迎える作戦が整っていることが分かっていて、待ち受けているところに攻めて行って、どうやって勝つんだ。中の作戦は数年来議論してきたものだ。
謙信は言った。三軍の災いは疑いから生まれるという、これが一つ。疲れに便乗するべきだ、これが二つ。
8月になって軍を川中島に出すぞ、と現場指揮者を全員招集した。それぞれが作戦を聞くと、考えている事を書いて出した。上中下の三等級に分け、下の作戦を使おう、と言うのでそれはどういうことなのでしょうか、と怪しむと、謙信が言った。
上の作戦はすでに敵が推察しているところで、我々を迎える作戦が整っていることが分かっていて、待ち受けているところに攻めて行って、どうやって勝つんだ。中の作戦は数年来議論してきたものだ。
下の作戦を採用して貝津の城(貝津城=海津城=松代城)を踏み越え、西條山に陣を取り、しばらく敵の後援を待とう。これは兵士を死地に追い込むのではないか。信玄が来たら、その時に勝負を一度で決めよう。もし信玄が貝津城に入ったら包囲攻撃だ。また信玄が川中島に陣取って我々の帰路を封鎖するのなら、自軍は雨の宮の渡しを渡らずそのまま貝津城に向かって攻撃すれば信玄は必ず援護に来るはずだ、その時にまた一戦してだめなら討死しよう。これが下策を採用する理由だよ。
こう言って8月24日に妻女山に押し入り着陣した。信玄は後援し、しばらく対陣していたが、廣瀬の渡しを越えて海津城に入った。
こうして9月9日の夜、謙信は現場指揮官を集合させ、明日に信玄は必ず出て戦うはずよ、今夜に雨の宮の渡しを逆寄せしてその不意を討つんだ、用意しろ、と言って午前4時になって川中島に軍を押し出した。先鋒は柿崎和泉(景家)で最後尾は甘粕備後(景持)である。
こうして9月9日の夜、謙信は現場指揮官を集合させ、明日に信玄は必ず出て戦うはずよ、今夜に雨の宮の渡しを逆寄せしてその不意を討つんだ、用意しろ、と言って午前4時になって川中島に軍を押し出した。先鋒は柿崎和泉(景家)で最後尾は甘粕備後(景持)である。
その通り10日の午前6時頃に信玄は一万以上の兵を率いて千曲川に出撃し、善光寺の要路で待つところに謙信が進軍し全軍一体での戦闘を始めた。謙信の親衛隊は真黒になって斬ってかかり、信玄親衛隊を押し崩した。山梨軍の戦死者は数知れなかった。そんなところに妻女山の山梨兵が一騎で駆けてくるのを見て、謙信は軍をまとめ勝利を完成させた。
甘粕が最後尾を進めるのを見て信玄の親衛隊は踏みとどまったが、再び潰乱して廣瀬の渡しまで退却した。このため甘粕は西方の川岸に着陣し、三日経って引き上げた。
《異説》
これは謙信実記にもとづいて書いたものである。川中島の戦闘には異説が多く、はっきりしない。
これは謙信実記にもとづいて書いたものである。川中島の戦闘には異説が多く、はっきりしない。
一説に、天文23(1555)年の8月18日に川中島で戦闘があった。謙信の親衛隊が五十メートルほど敗走するところに宇佐見定行が横撃し、信玄軍が大潰乱し御幣川に追い込まれる者が多かった。
信玄が川の中で馬を立てていると、謙信は緑の稠密ドンスで包んだチョッキに手甲を着け、白い手拭いで頭を包み、約九十センチの刀を抜いて持ち、虎が荒れたような鹿毛の馬に乗り、信玄はどこにいるんだ、と呼びかけた。
原大隅が、信玄が何でここにいるってんだ、あわてものめと罵り槍で突いたが外した。
謙信が川に馬を乗り入れ信玄に駆け寄り、三刀まで斬ると、信玄は持っていた軍配団扇も斬り折られて負傷しすでに危なかったが、原と萩原弥右衛門が槍を伸ばし畳みかけて謙信を叩くと、馬のサンズに当たって馬は深みに飛び込んだ。その間に信玄の馬係達が信玄の馬を岸に引き上げて終わったという。
宇佐美駿河が謙信からもらった感謝状にも天文23(1555)年8月18日川中島で横槍により信玄の親衛隊を崩乱させたことが掲載されている。
弘治2(1556)年3月25日にも川中島で戦闘があった。謙信は千曲川を渡って夜戦を試みた。板垣何々、山本勘助を始め戦死者が多かった。山梨の先鋒が山を降りて前後に迫ってきたので謙信は川を渡って引きあげた。この時に宇佐見駿河が先陣して功績をあげた。
また永禄4(1562)年9月10日に川中島の戦闘で武田の先鋒が負けた。信玄の親衛隊によって挽回し、長尾政景等が陣を乱してかかっているところに渡辺越中隊が突出して槍を入れ結果的に山梨軍が負けたことは、すべて謙信が家臣に与えた感謝状に伝わっている。甲陽軍鑑の川中島は数回の戦闘をまとめて一回としたということではないのか。
また一説に永禄4(1562)年9月10日の戦闘のことは謙信の家に言い伝えられていないという。しかしながら謙信の感謝状を伝えて謙信実記と一致するのに似ているのなら、9月10日に戦闘があったことは疑えない。
また一説に永禄4(1562)年9月10日の戦闘のことは謙信の家に言い伝えられていないという。しかしながら謙信の感謝状を伝えて謙信実記と一致するのに似ているのなら、9月10日に戦闘があったことは疑えない。
上杉義春(1549-1643)入道が京都で閑居していた時に、あまりに暇なので甲陽軍鑑を読ませて聞いたところ、事実と違うことばかりであった。高坂(弾正)が亡くなってからのことを多く記載し、川越の戦闘は年月が大幅に違い、人物の姓名も問題外に間違っていることが多く、いない人の名前を創作したものもある。謙信の時代のことは私はよく知っているが、これだけ間違っているのならこの本これ以上信用する価値がない、と言って再度読ませることはなかった、という。今これを考えると甲陽軍鑑は偽物である。
また、現在よく読まれている本に川中島五戦記というものがあり、川中島の戦いは五回であると書いている。しかしその中には疑うべき点がないでもなく、正しい本とも信じられない。
謙信が鶴岡に詣でて忍の成田を討ったところ関東の武将達がそれぞれに離反し、物資を取られ謙信はなんとか逃げ出して新潟に帰った、と甲陽軍鑑に書いてあるのも納得できない。関東の武将達が従わなければどうしてその年に京都に行くことがあったのか。これは事情時勢からあきらかなことで、甲陽軍鑑虚妄論を持ち出すまでもない。
《竹棒》
謙信は背がそれほど高くない。左足に気腫があって歩く時に足を引くように見えたという。武装することは少なく、黒い木綿の胴服を着て、鉄で作った小さな車笠をかぶり、采配をとることも少なく、青竹を九十センチ位にして杖のようにさげて指示を出した。梁の韋叡の竹製如意棒の遺風だったという。
《佐野城》
天正二(1574)年、北条(4代当主)氏政が三万人で佐野政綱(佐野市唐沢山城主昌綱)を包囲したと聞き、八千人で後援した。後援には俺に負けない上司達が揃っているから安心だが、佐野の城は不安だろう、まず俺は城に駆け込んで力づけよう。と言って武具も着けず、黒い木綿の胴服をはおって十文字の槍を横たえ、わずか十三騎を引き連れて氏政の陣の前を静かに歩いて佐野の城に入るのを北条の兵隊が見た。鬼神悪鬼とはこれなのだ、と恐ろしがって誰も近づかない。
やがて包囲が解かれると謙信は城門を開いたが、氏政は一戦もせずに撤収した。
《平家物語》
ある夜、石坂検校に平家物語を語らせていたところ、ヌエの段を聞いて何度も涙をこぼしていた。
《竹棒》
謙信は背がそれほど高くない。左足に気腫があって歩く時に足を引くように見えたという。武装することは少なく、黒い木綿の胴服を着て、鉄で作った小さな車笠をかぶり、采配をとることも少なく、青竹を九十センチ位にして杖のようにさげて指示を出した。梁の韋叡の竹製如意棒の遺風だったという。
《佐野城》
天正二(1574)年、北条(4代当主)氏政が三万人で佐野政綱(佐野市唐沢山城主昌綱)を包囲したと聞き、八千人で後援した。後援には俺に負けない上司達が揃っているから安心だが、佐野の城は不安だろう、まず俺は城に駆け込んで力づけよう。と言って武具も着けず、黒い木綿の胴服をはおって十文字の槍を横たえ、わずか十三騎を引き連れて氏政の陣の前を静かに歩いて佐野の城に入るのを北条の兵隊が見た。鬼神悪鬼とはこれなのだ、と恐ろしがって誰も近づかない。
やがて包囲が解かれると謙信は城門を開いたが、氏政は一戦もせずに撤収した。
《平家物語》
ある夜、石坂検校に平家物語を語らせていたところ、ヌエの段を聞いて何度も涙をこぼしていた。
近くの人々が変だなと思っていると、輝虎が言った。
我が国の武力の徳も衰えたと思ったんだ。むかし鳥羽天皇の時代に皇居に妖怪がいたが、八幡太郎が弦を鳴らして「鎮守府将軍源義家」と名乗ると一瞬で消えたという。その後に源頼政がヌエを射たが死ななくて、井野隼人が刺し殺して終らせたと聞く。
義家が弦を鳴らしたのは天仁元(1108)年のことだ。ヌエが出たのは近衛天皇の仁平3(1153)年だからわずか46年なのに武徳はすでにはるかに劣っていたのだ。
そしていま義家に遅れること450年、俺もやはり遠く及ばないのだ、思わず涙が流れるよ、と語ったのだった。
《佐野房綱》
これに似た話がある。相模国で北条家の傘下にあった佐野城の城主である天徳寺(佐野家18代当主房綱、1558-1601)は、勇敢な武将であった。あるとき琵琶法師に平家を語らせたが、まだ語る前に、俺はただあわれなことを聞きたいと思う、それを分かってほしい、と言った。法師はうけたまわりました、と言って佐々木高綱の宇治川先陣を語り始めると、天徳寺は雨雫と涙を流して泣いていた。そしてまた、もう一曲さっきのようにあわれなことを聞きたいと言うと、那須与一の扇的を語った。半ばになって天徳寺はまた、数節に渡って涙を落とした。
後日になって、城主付きの人々にあの日の平家物語はどうだったか、と聞くと皆が面白いと思いました、ただし一つ分からない事があります。二曲とも勇気と軍功の話であわれの要素は少しもないのに貴方は感涙にむせんでおられました、変だなと今になって話していたのです、と言った。
天徳寺は驚いた。今までみんなを頼もしく思っていましたが、今のひとことで力が抜けましたぞ、とだよ。まず佐々木のことをよく心に浮かべてみてくださいよ、右大将は舎弟の蒲冠者にも寵臣の梶原にも下さらなかった名馬イケヅキを高綱に下さったのではないですか、もしもそれなのにこの馬で宇治川の先陣ができずに人に先を越されたら、必ず討死して再び帰らないと暇乞いをして出ていった、その気持があわれではないですか。
こう言ってさらに涙をぬぐい、少しして言った。それから那須与一も、多くの人の中から選ばれて、ただ一人で陣地の先頭に出てから馬を海中に乗り入れ標的に向かうまで、源平の両家が静まり返って見つめていた。もし射撃に失敗したら味方の名誉はない、馬の上で腹を切って海に沈もう、こう思い詰めた気持を察してみてくださいよ。
《佐野房綱》
これに似た話がある。相模国で北条家の傘下にあった佐野城の城主である天徳寺(佐野家18代当主房綱、1558-1601)は、勇敢な武将であった。あるとき琵琶法師に平家を語らせたが、まだ語る前に、俺はただあわれなことを聞きたいと思う、それを分かってほしい、と言った。法師はうけたまわりました、と言って佐々木高綱の宇治川先陣を語り始めると、天徳寺は雨雫と涙を流して泣いていた。そしてまた、もう一曲さっきのようにあわれなことを聞きたいと言うと、那須与一の扇的を語った。半ばになって天徳寺はまた、数節に渡って涙を落とした。
後日になって、城主付きの人々にあの日の平家物語はどうだったか、と聞くと皆が面白いと思いました、ただし一つ分からない事があります。二曲とも勇気と軍功の話であわれの要素は少しもないのに貴方は感涙にむせんでおられました、変だなと今になって話していたのです、と言った。
天徳寺は驚いた。今までみんなを頼もしく思っていましたが、今のひとことで力が抜けましたぞ、とだよ。まず佐々木のことをよく心に浮かべてみてくださいよ、右大将は舎弟の蒲冠者にも寵臣の梶原にも下さらなかった名馬イケヅキを高綱に下さったのではないですか、もしもそれなのにこの馬で宇治川の先陣ができずに人に先を越されたら、必ず討死して再び帰らないと暇乞いをして出ていった、その気持があわれではないですか。
こう言ってさらに涙をぬぐい、少しして言った。それから那須与一も、多くの人の中から選ばれて、ただ一人で陣地の先頭に出てから馬を海中に乗り入れ標的に向かうまで、源平の両家が静まり返って見つめていた。もし射撃に失敗したら味方の名誉はない、馬の上で腹を切って海に沈もう、こう思い詰めた気持を察してみてくださいよ。
弓矢をとる道ほどあわれなものはない、私はいつも戦場においては高綱与一の気持で槍を取っていますから、平家物語を聞くときも二人の心を思って涙を止められない。それをみなさんはあわれじゃなかったってか。そんならみんなの武勇はその時の気合まかせで真実から出たものではなかったんですか、と思われます。
そんなの頼りになりません、と落ち込んでいたという。
《峯澤》
謙信のところに峯澤という侍がいて、罪があって追放され富山の椎名に就職し、謙信が富山に出陣した時に、草むらに隠れて銃を持ってうかがっていたが、にわかに銃を投げ捨てて泣いていた。
謙信が見つけてどうよ峯澤めずらしい、と言うとこれだけの人間味のある主君、頭のいい武将をお討ちしようと思いましたのが悔しくなりましたのです、いま遠くから拝見して前にご主人の心に背きそしてこんな計画をしましたことは、これ以上ない大きな罪であります、さあすぐ首をはねないと、と言ってひれ伏すと、謙信はあははと笑って俺に頭とか人間味とか釣り合わない嘘の評判だよ、はやく駆け戻って椎名にちゃんと仕えろ。
そう言われたけれども、その侍は越後に帰って農業者になって、一生を終えたのだとかだ。
《上杉義春》
上杉義春入道入庵は末席にいたが進み出て、福島正則、加藤嘉明、黒田長政に向かって言った。みなさん考えるまでもないです。人質を三成に出しておいて今になってお味方してその人質を捨てれば妻子の恨みと世間の悪口は逃れられない。秀頼公に出しておいた人質を三成が横取りしたということなら、三成と戦ったところで妻子の恨みも世間の悪口もあるわけがない。人はどうであれ私はまずお手を引いて討死を遂げます。こう言うとみな一様にお味方させていただきますと決定した。その場にこれくらいのことを分からない人がいないわけでもないのはもともとそうなのだが、時機に当たっての義春の発言は群を抜いて聞こえていたわけなのだ。
義春は上杉弥五郎といって新潟上条の城主であり、後に民部少輔といって景勝の姉の夫である。謙信の先頭指揮官で武人として高名だった。景勝が新発田治長の造反を攻伐した時に、治長の突撃に対して槍の壁で退路に待ち伏せて追い討ちした勇将だ。
《峯澤》
謙信のところに峯澤という侍がいて、罪があって追放され富山の椎名に就職し、謙信が富山に出陣した時に、草むらに隠れて銃を持ってうかがっていたが、にわかに銃を投げ捨てて泣いていた。
謙信が見つけてどうよ峯澤めずらしい、と言うとこれだけの人間味のある主君、頭のいい武将をお討ちしようと思いましたのが悔しくなりましたのです、いま遠くから拝見して前にご主人の心に背きそしてこんな計画をしましたことは、これ以上ない大きな罪であります、さあすぐ首をはねないと、と言ってひれ伏すと、謙信はあははと笑って俺に頭とか人間味とか釣り合わない嘘の評判だよ、はやく駆け戻って椎名にちゃんと仕えろ。
そう言われたけれども、その侍は越後に帰って農業者になって、一生を終えたのだとかだ。
《上杉義春》
上杉義春入道入庵は末席にいたが進み出て、福島正則、加藤嘉明、黒田長政に向かって言った。みなさん考えるまでもないです。人質を三成に出しておいて今になってお味方してその人質を捨てれば妻子の恨みと世間の悪口は逃れられない。秀頼公に出しておいた人質を三成が横取りしたということなら、三成と戦ったところで妻子の恨みも世間の悪口もあるわけがない。人はどうであれ私はまずお手を引いて討死を遂げます。こう言うとみな一様にお味方させていただきますと決定した。その場にこれくらいのことを分からない人がいないわけでもないのはもともとそうなのだが、時機に当たっての義春の発言は群を抜いて聞こえていたわけなのだ。
義春は上杉弥五郎といって新潟上条の城主であり、後に民部少輔といって景勝の姉の夫である。謙信の先頭指揮官で武人として高名だった。景勝が新発田治長の造反を攻伐した時に、治長の突撃に対して槍の壁で退路に待ち伏せて追い討ちした勇将だ。
大阪冬の陣で、二条城に大名達が出席した時に、家康は義春を呼び、上杉家の武者押しのことなどをたずねた。義春が詳細に答えるのを聞いて、上杉家の軍法は前から聞いていたけれども深く感じ入った、との発言があった。
大名達が並ぶ真ん中に、義春は小男だが言葉が明瞭で、説明は本当に河の流れのようで、大名達は誰もが武功智謀の人々なのに、言葉を出す者は無く、深く感じ入った様子であったという。
お読みくださり、ありがとうございました🙇
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