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松尾芭蕉、象潟その他

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おくのほそ道( 象潟その他、 抜粋 ) 松尾芭蕉  1689(元禄2)年に松尾芭蕉(1644-1694)は河合曾良(1649-1710)を伴い、北へ向かった。  江戸東京から日光を経て仙台松島、平泉で折り返して西に向かい、山形を経て北上して秋田に入り、 象潟(きさかた)に到達した。象潟が全行程 の最北端となった。  その後は新潟から北陸を巡り、岐阜大垣で旅行記を完結させた。 1702年『おくのほそ道』として公刊。  100年を経て 1804年 「象潟大地震」が起こり、入江(潟湖)だった象潟は陸地化し、現在にいたります。 (各部掲載は順不同です) 32.象潟  湾と山、水と陸、その風と光の数を極めて、いま象潟に行先を定める。酒田の港から東北の方向へ、山を越え、磯を伝い、砂を踏んで、その距離は四十キロ。太陽の影がやや傾く時間で、潮風は細砂を吹き上げ、雨が朦朧として、鳥海の山は隠れている。  闇の中ですることなく、雨もまた奇なりとすれば雨後の晴れ色もまた頼もしいと、海人のカヤ小屋に膝を入れて雨の晴れを待つ。その朝の空はよく晴れて、朝日が華やかに射し出るころ、象潟に舟を浮かべる。  まず能因島(のういんじま)に舟を寄せて能因法師三年幽居の跡をとむらい、向こうの岸で舟からあがると「花の上を漕ぐ」と詠まれた桜の老木が、西行法師の記念を残している。  湾上に御陵墓がある。神功皇后のお墓だという。寺を蚶満珠寺(かんまんじゅじ)という。ここに行幸があったとはいまだに聞かないが、どういうことか。この寺の四畳半に座ってすだれを巻き上げると、風景は一望の中に全てあって、南に鳥海山が天を支え、その影が映って水上にある。西は有耶無耶の国境関が通行を限り、東に堤を築いて秋田に通う道は遥かだ。海は北にかまえて、波の打ち入るところを潮越という。  湾の縦横は四キロくらいで、面影は松島に通じるが、やはり違う。   松島は笑っているようで、象潟は泣いているようだ。 寂しさに悲しみを加えて、地形が魂を揺さぶっているようなのだ。 象潟や。雨に麗人、ネムの花 潮越や。鶴脚濡れて、海涼し 象潟や。料理何食う、神祭り 曾良 (原文) 江山水陸の風光数を尽して今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作...

遠野物語(抜粋)

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遠野物語(抜粋) 著:柳田国男 岩手県遠野地方に伝わる様々な話が集められています。不思議な話が多いです。 1910(明治43)年刊行。高級官僚でもあった柳田国男氏(1875-1962)が文筆家の佐々木喜善(鏡石)氏(1886-1933)から聞き取り、自費出版しました。日本民俗学の出発点とされています。 《目次》 本文(抜粋) 初版序文(全文) 本文 (各エピソードの掲載順はランダムです。《》内タイトルは筆者によるものです) 六三《迷い家「マヨヒガ」》  小国の三浦某というのは、村一番の富豪です。今から二三代前の主人のとき、まだ家は貧しく、妻は多少ぼーっとしていた。この奥さんがある日、門の前を流れる小さな川にそってフキを採りに入りましたが、良いものが少ないので、しだいに谷の奥深く登りました。  さてふと見ると、立派な黒い門の家がある。不審ではあるが門の中に入って見ると、大きな庭に紅白の花が一面に咲き、ニワトリが沢山遊んでいる。その庭を裏の方へまわると、牛小屋があって牛が沢山いて、馬舎があり馬が沢山いたが、いっこうに人はいない。ついに玄関から上がってみると、その次の間には朱と黒との膳椀を数多く取り出してある。奥の座敷には火鉢があり、鉄瓶の湯がたぎっているのを見た。それでもついに人影はないので、もしや山男の家ではないかと急におそろしくなり、駆け出して家に帰りました。  この事を人に話しても本当だと思う人もなかったが、またある日わが家の川戸に出てものを洗っていると、川上から赤い椀が一つ流れてきた。あまりに美しいので拾い上げたけれど、これを食器に使ったらきたないと人に叱られんか、と思い、ケセネ櫃の中に置いて穀物を量る器としました。するとこの器で量り始めてから、いつまでたっても穀物が尽きない。家の者もこれを怪しんで女性に聞いた時、はじめて川から拾い上げた事を、話した。この家はここから幸福に向かい、ついに今の三浦家となった。  遠野では山中の不思議な家を「マヨヒガ」迷い家、という。マヨヒガに行き当った者は、必ずその家の什器家畜を何であれ持ち出してくるべきものです。その人に授けるために、こんな家を見せるのですよ。女性が無欲で、なんのものも盗んでこなかったがために、このお椀がみずから流れて来たのだろう、といいます。 四《山の麗人》  山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り...

連合艦隊解散の辞

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連合艦隊解散の辞 1905(明治38)年12月21日 話者:東郷平八郎(1848-1934) 起草者(推定):秋山真之(1868-1918)  1904年から05年にかけての日露戦争において、日本国連合艦隊は日本海沖でロシア艦隊を迎撃して事実上全滅させ、世界を驚愕させた。  戦後に艦隊が通常編成に戻るにあたり、東京湾内において旗艦「朝日」(戦時は「三笠」)の艦上で解散式が行われ、東郷司令長官が読み上げた。アメリカのルーズベルト大統領がこれに感動し 、翻訳して全軍に配布した。  文案は、作戦を一貫して担当した秋山参謀によるものと考えられている。  20か月の対外戦争はすでに過去のものとなり、われわれ連合艦隊はいまやその任務を完了し、ここで解散することになりました。  けれども我ら海軍軍人の責務は、決してこれによって軽くなるわけではありません。 この戦役の成果を永遠に完全なものとし、さらにますます国の運を高め続けてゆくには、平和な時も戦いの時も、最初に外国と対決すべき海軍が常にその武力を海洋に保全し、いざという時に立ち向かう覚悟を持っていなければなりません。  そして武力というものは、艦船や兵器といったものだけではありません。それを活用するかたちのないもの、つまり実力のことなのです。百発百中の一砲が百発一中の敵砲百門に対抗できることを実感したならば、我々軍人はまず、武力をかたちのないものに求めないわけにはゆきません。  前回我が海軍が勝利を得たのも、至尊の霊徳に頼るところが多かったとはいえ、それでもやはり平素の鍛錬がその原因をなしていて、それを戦役に結びつけたのだから、過去によって将来を推測するときには、対外戦争が休止したといっても安心して休息してはいけないところがあると考えるのです。  思うに、武人の一生は連綿不断の戦争であり、平和な時であれ戦いのときであれその責務に軽重があるわけがありません。事あれば武力を発揮し、事なければそれを修養し、終始一貫その本分を尽くすだけです。過去の一年半年あまり、あの風濤と戦い、寒さ暑さに抗らい、しばしば頑敵に出遭って生死の境を行き来したのはもちろん容易なことではなかったが、思えばこれもまた長期の一大演習であり、これに参加していくつも啓発の機会を得たのは、武人の幸福として比べるものがない。  これを出国戦の辛苦といって足りるのか。そして...