興津弥五右衛門の遺書、森鴎外
興津弥五右衛門の遺書
(文語体部分全文)
作:森鴎外(もりおうがい:1862-1922)初稿発表1912(大正1)年10月

わたくしこと明日は年来の宿望あい叶いまして、妙解院(細川忠興)殿のお墓前において首尾よく切腹いたします事とあいなりました。それならば子孫のためにその経緯を書き残しておきたく、京都にある弟又次郎の宅にて筆をとりおります。
わたくしは文禄4(1596)年に景一の次男に生まれ、幼名を才助と申します。7才のとき父について豊前国福岡小倉へ参り、慶長17(1612)年に18才で三斎(忠興)公に召し出されました。元和7(1621)年に三斎公が引退あそばされました時に父も剃髪いたしましたので、わたくしは28才で「弥五右衛門景吉(かげよし)」と名乗り、三斎公のお供をいたしまして、豊前国大分中津に参りました。
寛永3(1626)年5月に安南(フランス領ベトナム)船が長崎に到着しました時、三斎(忠興)公はご剃髪あそばされましてから3年目でしたが、お茶事にお用いなされます珍しい品を買い求めますよう仰せ含められ、相役の横田清兵衛と両人で長崎へ出向しました。幸いな事に尋常でない伽羅(高級香木ジンコウ「キャラ」)の大木が渡来いたしておりました。するとその伽羅には本木と末木の二つがあって、はるばる仙台から差し下されました伊達中納言(政宗)殿の役人が是非とも本木の方を取ろうとし、私も同じ本木に望みをかけて互いに競り合い、次第に値段を釣り上げました。
私つらつらまず考えますのは、ご当家に仕え奉りまして以来のことを思うに、父兄ことごとく格別のお引き立てをいただいたのは言うまでもない、私一身にとっては、長崎において相役の横田清兵衛を討ち果たしました時、松向寺(忠興)殿が一命をお救いくださり、この再生の大恩ある主君がご卒去あそばされましたのに、私はどうして存命いたすべきかと、決心いたしました。
先年に妙解院(三代忠利)殿ご卒去の折には十九人の者たちが殉死いたし、また一昨年松向寺(二代忠興)ご卒去の折にも、簑田平七、小野伝兵衛、久野、宝泉寺の四人が直ちに殉死いたしました。簑田は曽祖父を和泉と申す者で相良遠江殿の家老であり、主君と共に戦死し、祖父の若狭と父の牛之助が流浪したが、平七は三斎公に五百石で召し出されたのであります。平七は二十三才で切腹し、小姓の磯部が介錯いたしました。小野は丹後国で祖父の代に召し出されたものであるが、父親がお旨に逆らい江戸邸から逐電したとき、近習を勤めていた伝兵衛に、父を尋ね出してまいれ、もし尋ね出さずに帰りましたらば父の代わりに処刑いたすからと仰せられ、伝兵衛は諸国を遍歴したが巡り合わない趣でまかり帰りました。三斎公はその時、死罪を顧みずして帰参したのは殊勝であると仰せられまして、助命あそばされました。伝兵衛はこの恩義を思いまして、切腹いたしました。介錯は磯田十郎であります。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺ご籠城の時に功があって新知百五十石を頂きました者であります。矢野又三郎が介錯いたしました。宝泉院は陣貝吹きの山伏で、筒井順慶の弟の子であります。介錯は懇意の山伏との事であります。
私はこれらの事を見聞きしますにつけ、どうにも羨ましく面目を施したかったのですけれども、江戸詰めお留守居のご用が残っており、他人には処理があいならずに、むなしく月日が経つのにまかせました。そんなところ松向寺(忠興)殿のご遺骸は八代にある泰勝院において荼毘されていたが、ご遺言により、去年の正月十一日に泰勝院(僧侶)専誉がご遺骨を京都へ護送いたしました。お供には長岡河内、加来作左衛門、山田三右衛門、佐方源左衛門、吉田兼庵があい立ちました。二十四日には一同が京都に到着し、紫野大徳寺の高桐院にご納骨いたしました。ご生前において同寺清巌和尚にお約束がありました様子であります。
(文語体部分全文)
作:森鴎外(もりおうがい:1862-1922)初稿発表1912(大正1)年10月
原案:神沢杜口(かんざわとこう:1710-1795)『翁草』第6巻「細川家の香木」(1772-91年)

わたくしこと明日は年来の宿望あい叶いまして、妙解院(細川忠興)殿のお墓前において首尾よく切腹いたします事とあいなりました。それならば子孫のためにその経緯を書き残しておきたく、京都にある弟又次郎の宅にて筆をとりおります。
わたくし祖父は興津右兵衛景通(かげみち)と申します。永正11(1515)年に駿河国興津で生まれ、今川治部大輔(義元)殿に仕え、同国興津の清見関に住居いたしました。永禄3(1561)年5月20日に今川殿が戦死あそばされました時、景通もお供いたしました。年齢41才でした。法名は千山宗及居士と申します。
父の才八は永禄元(1558)年に出生しまして、3才にして父を失い、母の手で養育されまして人となりました。壮年にいたって弥五右衛門景一(かげかず)と名乗り、母の親族である西兵庫播磨国の人、佐野官十郎方に仮居いたしておりました。さてその縁故をもって赤松左兵衛督(広秀)殿に仕え、天正9(1581)年に千石を頂きました。13年4月に赤松殿が阿波徳島国を併せ領せられましたのにいたって、景一は三百石を加増され、阿波郡代となり、同国渭津(いのつ)徳島に住居いたし、慶長の始めまで勤続いたしました。
慶長5(1600)年7月に赤松殿は石田三成に加担いたされ、近畿山岳丹波国の小野木縫殿介と共に北京都丹後国の田辺城を攻められました。当時田辺城には松向寺(細川二代忠興)殿がお立て籠もりあそばされておりましたところ、神君(徳川家康)が上杉景勝を討たせなさるので、三斎公も随従あそばされ、あとには泰勝院(細川初代藤孝)殿がお留守あそばされました。
景一は京都で赤松殿の屋敷にあった時、烏丸光広卿と知り合いにあいなっておりました。これは光広卿が幽斎公の和歌のお弟子で、嫡子の光賢卿に松向寺(忠興)殿ご息女の万姫様をめあわせておられましたからであります。さて景一は光広卿を介してご当家のご父子ともお心安くあいなっておりました。
田辺攻めの時、関東においであそばされました三斎(忠興)公は、景一の外戚の従弟である森三右衛門を使者として田辺に差し立てられました。森は田辺に到着いたし、景一に面会してお旨を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と相談し、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射かけました。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出してやりました。森は首尾よく城内に入り、幽斎公のご親書を得て、翌晩関東へ出立いたしました。
この年に赤松家が滅亡されましたために、景一は森の案内で福岡大分豊前国へ参り、慶長6(1601)年ご当家に召し抱えられました。元和5(1619)年にご当代(細川四代)光尚(みつなお)公がご誕生あそばされ、ご幼名六丸様と申しました。景一は六丸様のお付きとあいなりました。元和7年に三斎(忠興)公がご引退あそばされました時、景一も剃髪いたし、宗也(そうや)と名乗りました。
寛永9(1632)年12月9日にご先代妙解院(細川三代忠利)殿が肥後熊本へご入国あそばされました時、景一もお供いたしました。18年3月17日に妙解院殿が逝去あそばされ、次いで9月2日に景一も病死いたしました。享年84才でした。
兄九郎兵衛一友は景一の嫡子であり、父について豊前へまいり、慶長17(1612)年に三斎公に召し出され、お傍勤めを仰せつけられ、のち病気により外様勤めとあいなりました。妙解院(三代忠利)のお代にいたり、寛永14(1637)年の冬に長崎島原(の乱)攻めのお供をいたし、翌15年2月27日に兼田弥一右衛門とともに、ご当家攻め口の一番乗りと名乗り、海に臨んだ城壁の上にて戦死いたしました。法名を義心英立居士と申します。
わたくしは文禄4(1596)年に景一の次男に生まれ、幼名を才助と申します。7才のとき父について豊前国福岡小倉へ参り、慶長17(1612)年に18才で三斎(忠興)公に召し出されました。元和7(1621)年に三斎公が引退あそばされました時に父も剃髪いたしましたので、わたくしは28才で「弥五右衛門景吉(かげよし)」と名乗り、三斎公のお供をいたしまして、豊前国大分中津に参りました。
寛永3(1626)年5月に安南(フランス領ベトナム)船が長崎に到着しました時、三斎(忠興)公はご剃髪あそばされましてから3年目でしたが、お茶事にお用いなされます珍しい品を買い求めますよう仰せ含められ、相役の横田清兵衛と両人で長崎へ出向しました。幸いな事に尋常でない伽羅(高級香木ジンコウ「キャラ」)の大木が渡来いたしておりました。するとその伽羅には本木と末木の二つがあって、はるばる仙台から差し下されました伊達中納言(政宗)殿の役人が是非とも本木の方を取ろうとし、私も同じ本木に望みをかけて互いに競り合い、次第に値段を釣り上げました。
その時に横田が申しましたのは、たとえ主命であっても、香木は無用の玩物であるから、過分の大金を投げ打ちます事はあるべきにあらず、ここは本木を伊達家にゆずり、末木を買い求めたい由を申しました。
私が申しましたのは、私はそのようには考え申さぬ、主君の申しつけられましたのは、珍しい品を買い求めて参れとの事なので、このたび渡来しました品の中で、第一の珍物はあの伽羅なのであり、その木に本木があれば、本木の方が逸品中の逸品であること無論である、それを手に入れてこそ主命を果たすに当たるべきで、伊達家の伊達を増長いたさせ、本木をゆずりましては、細川家の流れをけがす事とあいなり申すはずと申しました。
横田はあざ笑って、それは力瘤の入れどころが違っている、一国一城を取るか遣るかと申す場合ならば、あくまで伊達家に盾をつくがよろしかろう、たかが四畳半の炉に焚べられる木の切れじゃないか、それに大金を捨てること思いも寄らん、主君ご自身で競り合われましたらば、臣下として諫め留め申すべき事である、たとえ主君が強いて本木を手に入れたく思い召されようとも、それを遂げさせ申す事はおべっか巧言の行為であるはずと申しました。
当時三十一才の私、この言葉を聞いて立腹いたしましたが、なおこらえて申しましたのは、それはいかにも賢人らしい申し事です、そうですが私はただ主命というものが大切であるので、主君があの城を落とせと仰せられましたなら鉄壁であっても乗り取り申さねば、あの首を取れと仰せられましたなら鬼神であっても討ち果たし申さねばと同じく、珍しい品を求め参れと仰せられましたなら、この上ない名品を求める所存です、主命である以上は、人倫の道に背きます事は別として、その事柄に立ち入り批判がましい事は無用ですと申しました。
横田はますますあざ笑って、お手前としてもその通り道に背いている事はしないと申されるのじゃないか、これが武具などならば、大金に代えても惜しくない、香木に不相応である値を出そうとせられるのは若輩の心得違いであると申しました。
私申しましたのは、武具と香木との相違は、私若輩ながら心得ている。
泰勝院(細川幽斎藤孝)殿のお代に、蒲生(氏郷)殿が申されましたのは、細川家には結構なお道具が数多くあるとの事なので拝見にまかり出ようとの事である、さて約束された当日にあいなり、蒲生殿が参られますと、泰勝院殿は甲冑刀剣弓槍の類いを並べてお見せになり、蒲生殿は意外に思われながら一応ご覧になり、さて実は茶器を拝見いたしたく参上している次第ですと申され、泰勝院殿はお笑いになり、さっきは道具とおっしゃいましたから、武家の表道具をご覧に入れたが、茶器ならば、それも少々持ち合わせますといって、はじめてお取り出しなさった由。ご当家におかれては、代々武道のお心掛けが深くいらっしゃり、かたわら歌道茶事までも堪能に渡らせられるのが天下に比類ないところではないか、茶の事は無用の虚礼であると申せば、国家の大礼も先祖の祭祀もすべて虚礼であろう、我らがこのたび仰せを受けたのは茶事にご用に立つべき珍しい品を求める以外に他の事はない、これが主命ならば身命に懸けても果たさねばあいならない、貴殿が香木に大金を出すことが不相応であると思われましたのは、その道の心得がないので一徹にそう思われるのでは、と申しました。
横田は聞きも終わらず、たしかに私は茶事の心得がない一徹な武辺者である、諸芸に堪能であるお手前の表芸が見たいと申すや否や、つと立ち上がり、脇差しを抜いて投げつけました。私は身をかわして避け、刀は違い棚の下にある刀掛けに掛けてあったので、飛びさがり刀を取って抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たしました。
こうして私はすぐに伽羅の本木を買い取り、中津へ持ち帰りました。伊達家の役人は仕方なく末木を買い取り、仙台へ持ち帰りました。私は香木を三斎公(忠興)に参らせ、さてお願い申しますのは、主命大切と心得ますためとは申しながら、お役に立つべき侍を一人討ち果たしました段、恐れ入りますので、切腹仰せつけられたくと申しました。
こうして私はすぐに伽羅の本木を買い取り、中津へ持ち帰りました。伊達家の役人は仕方なく末木を買い取り、仙台へ持ち帰りました。私は香木を三斎公(忠興)に参らせ、さてお願い申しますのは、主命大切と心得ますためとは申しながら、お役に立つべき侍を一人討ち果たしました段、恐れ入りますので、切腹仰せつけられたくと申しました。
三斎公はお聞き召され、私に仰せられましたのは、その方の申す事一々もっとも至極である、たとえ香木は貴くなくともこの自分が求めて参れと申し付けてある珍品に違いなければ大切と心得ますこと当然です、すべて功利の念をもってものを見ましたらば、世の中に尊いものはなくなるはず、ましてやその方が持ち帰りました伽羅はさっそく焚き試みましたら、稀代の名木なので「聞く度に、珍しければホトトギス、いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌にもとづき、名を初音とつけた、これほどの品を求め帰りましたことあっぱれです、ただし討たれました横田清兵衛の子孫が遺恨を含んでいてはあいならんと仰られました。こうして直ちに清兵衛の嫡子を呼ばれ、御前において盃を申し付けられ、私はあの者と互いに意趣を持つまじき旨を誓言いたしました。しかしながら横田の家の者たちがとかく異見を抱く由があい聞こえ、ついに福岡西方筑前国にまかりこしました。私へは三斎公のお名前忠興の興の字を頂き、沖津を興津とあい改めますようご指示がありました。
これから二年目、寛永5(1628)年九月六日に天皇は二条のお城へ行幸あそばされて妙解院(三代忠利)殿にあの名香をご所望あり、すぐにこれを献上される、天皇は深く感動されて「類いありと、誰かはいわむ末匂う、秋より後のしら菊のはな」と申す古歌の心にて、白菊と名付けなさる由をうけたまわりました。私が買い求めました香木、おそれ多くも至尊のご賞賛をお受けし、ご当家の誉れとあいなりました事、思いも寄らない事と思い、落涙しました事でした。
これから二年目、寛永5(1628)年九月六日に天皇は二条のお城へ行幸あそばされて妙解院(三代忠利)殿にあの名香をご所望あり、すぐにこれを献上される、天皇は深く感動されて「類いありと、誰かはいわむ末匂う、秋より後のしら菊のはな」と申す古歌の心にて、白菊と名付けなさる由をうけたまわりました。私が買い求めました香木、おそれ多くも至尊のご賞賛をお受けし、ご当家の誉れとあいなりました事、思いも寄らない事と思い、落涙しました事でした。
その後の私はご先代妙解院殿からも格別のお引き立てをお受けし、寛永9(1632)年お国替えの折には、三斎公のお居城八代にあい詰めます事にあいなり、そればかりか殿ご上京のお供にさえ召し配せられました。15(1638)年2月22日島原ご当家お攻め口にて、お旗を一番に入れました時、銃丸が左の腿に当たり、ようよう引き取りました。そのとき私は45才でありました。手傷が平癒しましてのち、私は16年に江戸詰めを仰せ付けられました。
寛永18(1641)年に妙解院(三代忠利)殿は思いがけないご病気により、お父上に先立ちご卒去あそばされ、当代肥後守光尚公のお代とあいなりました。同年9月2日には父弥五右衛門景一が死去いたしました。次いで正保2(1646)年に三斎公もご卒去あそばされました。これよりさき寛永13(1636)年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされました仙台中納言(伊達政宗)殿さえ、少林城にてご逝去なされました。あの末木の香りは「世の中の憂きを身に積む柴舟や、たかぬ先よりこがれ行くらん」と申す歌の心により柴舟と命名し、ご愛蔵なされましたとのことであります。
寛永18(1641)年に妙解院(三代忠利)殿は思いがけないご病気により、お父上に先立ちご卒去あそばされ、当代肥後守光尚公のお代とあいなりました。同年9月2日には父弥五右衛門景一が死去いたしました。次いで正保2(1646)年に三斎公もご卒去あそばされました。これよりさき寛永13(1636)年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされました仙台中納言(伊達政宗)殿さえ、少林城にてご逝去なされました。あの末木の香りは「世の中の憂きを身に積む柴舟や、たかぬ先よりこがれ行くらん」と申す歌の心により柴舟と命名し、ご愛蔵なされましたとのことであります。
私つらつらまず考えますのは、ご当家に仕え奉りまして以来のことを思うに、父兄ことごとく格別のお引き立てをいただいたのは言うまでもない、私一身にとっては、長崎において相役の横田清兵衛を討ち果たしました時、松向寺(忠興)殿が一命をお救いくださり、この再生の大恩ある主君がご卒去あそばされましたのに、私はどうして存命いたすべきかと、決心いたしました。
先年に妙解院(三代忠利)殿ご卒去の折には十九人の者たちが殉死いたし、また一昨年松向寺(二代忠興)ご卒去の折にも、簑田平七、小野伝兵衛、久野、宝泉寺の四人が直ちに殉死いたしました。簑田は曽祖父を和泉と申す者で相良遠江殿の家老であり、主君と共に戦死し、祖父の若狭と父の牛之助が流浪したが、平七は三斎公に五百石で召し出されたのであります。平七は二十三才で切腹し、小姓の磯部が介錯いたしました。小野は丹後国で祖父の代に召し出されたものであるが、父親がお旨に逆らい江戸邸から逐電したとき、近習を勤めていた伝兵衛に、父を尋ね出してまいれ、もし尋ね出さずに帰りましたらば父の代わりに処刑いたすからと仰せられ、伝兵衛は諸国を遍歴したが巡り合わない趣でまかり帰りました。三斎公はその時、死罪を顧みずして帰参したのは殊勝であると仰せられまして、助命あそばされました。伝兵衛はこの恩義を思いまして、切腹いたしました。介錯は磯田十郎であります。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺ご籠城の時に功があって新知百五十石を頂きました者であります。矢野又三郎が介錯いたしました。宝泉院は陣貝吹きの山伏で、筒井順慶の弟の子であります。介錯は懇意の山伏との事であります。
私はこれらの事を見聞きしますにつけ、どうにも羨ましく面目を施したかったのですけれども、江戸詰めお留守居のご用が残っており、他人には処理があいならずに、むなしく月日が経つのにまかせました。そんなところ松向寺(忠興)殿のご遺骸は八代にある泰勝院において荼毘されていたが、ご遺言により、去年の正月十一日に泰勝院(僧侶)専誉がご遺骨を京都へ護送いたしました。お供には長岡河内、加来作左衛門、山田三右衛門、佐方源左衛門、吉田兼庵があい立ちました。二十四日には一同が京都に到着し、紫野大徳寺の高桐院にご納骨いたしました。ご生前において同寺清巌和尚にお約束がありました様子であります。
さて今年にご用があい片付きましたので、ご当代(四代光尚)に宿望を言上いたしますと、止みがたき私の志をお聞き届けあそばされました。十月二十九日の朝にお暇乞いに参り、お振舞いにあずかり、お手ずからお茶をくだされ、引き出物として九曜の紋(細川家紋)に赤い裏の小袖二着を頂きました。退出しました後、林外記殿と藤崎作左衛門殿をお使いとしてつかわされ、後々の事は心配いたさなくてよい旨を仰せられ、お歌をくだされ、また京都へ参れば、万事を古橋小左衛門と相談して取り計らえと丁寧に仰せられました。そのほか堀田加賀守殿、稲葉能登守殿もお歌をくだされました。十一月二日に江戸を出立した時は、ご当代のお使いとして田中左兵衛殿が品川まで見送られました。
当地に着きましてからは、当家の主人である弟の又次郎の世話にあいなりました。ついては私があい果てました後、短刀を形見につかわします。
餞別として詩歌を贈られました人々は、烏丸大納言卿、浦松宰相卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺ならびに南都興福寺の長老達であります。
明日切腹します場所は、古橋殿の取り計らいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前から仮屋まで十八町のあいだ、藁むしろ三千八百枚あまりを敷き詰め、仮屋の中には畳一枚を敷き、上に白布を覆ってあります由であります。いかにも晴れがましくありまして、心苦しくありますけれども、これまた主命であれば仕方ないです。立ち合いはご当代のお代理の谷内蔵之介殿、ご家老の長岡与八郎殿、同半左衛門殿で、大徳寺清巌和尚も臨場されます。息子の才右衛門も参ることになります。介錯はかねて乃美市郎兵衛殿に頼んでおきました。わたくし法名は孤峰不白と自選いたしました。自分は不肖ながら見苦しい最期もいたすまいと思っております。
当地に着きましてからは、当家の主人である弟の又次郎の世話にあいなりました。ついては私があい果てました後、短刀を形見につかわします。
餞別として詩歌を贈られました人々は、烏丸大納言卿、浦松宰相卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺ならびに南都興福寺の長老達であります。
明日切腹します場所は、古橋殿の取り計らいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前から仮屋まで十八町のあいだ、藁むしろ三千八百枚あまりを敷き詰め、仮屋の中には畳一枚を敷き、上に白布を覆ってあります由であります。いかにも晴れがましくありまして、心苦しくありますけれども、これまた主命であれば仕方ないです。立ち合いはご当代のお代理の谷内蔵之介殿、ご家老の長岡与八郎殿、同半左衛門殿で、大徳寺清巌和尚も臨場されます。息子の才右衛門も参ることになります。介錯はかねて乃美市郎兵衛殿に頼んでおきました。わたくし法名は孤峰不白と自選いたしました。自分は不肖ながら見苦しい最期もいたすまいと思っております。
この遺書は息子の才右衛門あてにいたしておきましたので、子々孫々にあい伝え、私の志を継ぎ、ご当家にたいし奉り、忠誠に抜きん出るでしょう。
正保四年丁亥十二月朔日
興津弥五右衛門景吉華押
興津才右衛門殿
正保四年丁亥十二月朔日
興津弥五右衛門景吉華押
興津才右衛門殿
ここからは口語文で、殉死当日の様子、家系図と子孫、簡潔に記されてそのまま終わっています。
作者の親友であった軍人が明治天皇に殉じたという出来事があり、その直後に書かれました。作品は文語体の書状一通でほぼ完結していて、コメントは何もありません。
作者は、その友人のことを考えた時に、これを書かずにいられなかったのかと、想像します。
コメント
コメントを投稿