松尾芭蕉、象潟その他

おくのほそ道(象潟その他、抜粋)


松尾芭蕉



 1689(元禄2)年に松尾芭蕉(1644-1694)は河合曾良(1649-1710)を伴い、北へ向かった。

 江戸東京から日光を経て仙台松島、平泉で折り返して西に向かい、山形を経て北上して秋田に入り、象潟(きさかた)に到達した。象潟が全行程の最北端となった。

 その後は新潟から北陸を巡り、岐阜大垣で旅行記を完結させた。1702年『おくのほそ道』として公刊。

 100年を経て1804年「象潟大地震」が起こり、入江(潟湖)だった象潟は陸地化し、現在にいたります。


(各部掲載は順不同です)




32.象潟


 湾と山、水と陸、その風と光の数を極めて、いま象潟に行先を定める。酒田の港から東北の方向へ、山を越え、磯を伝い、砂を踏んで、その距離は四十キロ。太陽の影がやや傾く時間で、潮風は細砂を吹き上げ、雨が朦朧として、鳥海の山は隠れている。

 闇の中ですることなく、雨もまた奇なりとすれば雨後の晴れ色もまた頼もしいと、海人のカヤ小屋に膝を入れて雨の晴れを待つ。その朝の空はよく晴れて、朝日が華やかに射し出るころ、象潟に舟を浮かべる。

 まず能因島(のういんじま)に舟を寄せて能因法師三年幽居の跡をとむらい、向こうの岸で舟からあがると「花の上を漕ぐ」と詠まれた桜の老木が、西行法師の記念を残している。

 湾上に御陵墓がある。神功皇后のお墓だという。寺を蚶満珠寺(かんまんじゅじ)という。ここに行幸があったとはいまだに聞かないが、どういうことか。この寺の四畳半に座ってすだれを巻き上げると、風景は一望の中に全てあって、南に鳥海山が天を支え、その影が映って水上にある。西は有耶無耶の国境関が通行を限り、東に堤を築いて秋田に通う道は遥かだ。海は北にかまえて、波の打ち入るところを潮越という。

 湾の縦横は四キロくらいで、面影は松島に通じるが、やはり違う。

 松島は笑っているようで、象潟は泣いているようだ。寂しさに悲しみを加えて、地形が魂を揺さぶっているようなのだ。


象潟や。雨に麗人、ネムの花

潮越や。鶴脚濡れて、海涼し

象潟や。料理何食う、神祭り

曾良


(原文)

江山水陸の風光数を尽して今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて、其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴を待。其朝、天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。比處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

象潟や料理何くふ神祭

曾良



23.松島


 もともと言い古されているが、松島は極東第一の好景であり、およそ中国の洞庭湖西湖に恥じない。東南から海を入れて湾の中は十二キロ、浙江の湖をたたえる。島々は数を極めて、立つものは天を指し、伏せるものは波に匍匐する。あるいは二つに重なり三つに畳んで、左に離れ右に連なる。負われるものがあり、抱かれるものがあり、子や孫を可愛がるようだ。松の緑は細やかに、枝葉は潮風に吹きたわんで、屈曲は自分から矯めたかのようだ。その景色は〇然として、美人が顔を化粧している。千早振る神の昔、大山ずみのなせるわざなのか。天の造形美に、どこの人が筆を奮い言葉を尽くすというのか。

 雄島の磯は陸が続いて海に出ている島だ。雲居禅師の別室の跡、座禅石などがある。将松の木陰に世を厭う人も稀々に見えていて、落ち穂や松笠などでうちけむっている草の庵。ひっそりと住んでいて、どんな人かとは知られずながらもまず気になって立ち寄ると、月は海に映って昼の眺めとはまた異なる。湾の上に帰って宿を求めると、窓を開き二階を整え、風雲の中に旅寝するこそ、あやしいくらいに妙なる気持はするのだ。


松嶋や、鶴に身を仮れ、ほとゝぎす

曾良


 自分は口を閉じて、眠ろうとしても寝られん。


(原文)

抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたゝふ。嶋嶋の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に葡蔔。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其景色□然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将松の木陰に世をいとふ人も稀稀見え侍りて、落穂松笠など打けぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす
曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。



31.酒田

 

 羽黒を発って、鶴ケ岡の城下、長山氏の重行という武士の家に迎えられて、俳句の一席がある。左吉も一緒に送った。

 河舟に乗って酒田の港に下った。淵庵不玉という医者のところを宿にした。


あつみ山や、吹浦かけて、夕涼み


熱い日を、海に入れたよ最上川


(原文)

羽黒を立て鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて誹諧一巻有 、左吉も共に送りぬ。川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

あつみ山や吹浦かけて夕すずみ

暑き日を海にいれたり最上川



30.鶴岡羽黒、出羽三山


 6月3日、羽黒山に登る。

 図司左吉という者を訪ねて、別当代の会覚阿闍梨にお目にかかる。南谷の別院に泊って、細やかな憐憫の情で対応してくれる。

 4日、本坊において俳句の会。


ありがたや、雪を薫らす南谷


(原文)

六月三日羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日本坊において誹諧興行。

有難や雪をかをらす南谷


 5日、権現に詣でる。

 当山を開いた能除大師がいつの時代の人か、ということを知らない。延喜式(905-927)に羽州里山とある。書き写して「黒」の字を「里」山としたのか、羽州黒山を中略して羽黒山というのか。出羽というのは鳥の羽毛をこの国の税物に献上すると、風土記(700年代)にありますとかなあ。

 これに月山と湯殿山をあわせて出羽三山とする。

 当寺は武江東叡山に属して天台宗だ。止観の瞑想による真理の月、融通無碍の法の明かりを掲げて、僧舎を並べ修験行法を奨励し、霊山霊地の効験を人は尊びかつ畏れる。

 繁栄は長く続き、縁起の良いご寺院と言われてるな。


(原文)

五日権現に詣、当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有、書写、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。

月山湯殿を合て三山とす。

当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに円頓融通の法の灯かかげそひて僧坊棟をならべ修験行法を励し霊山霊地の験効人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。


 8日、月山に登る。

 木綿を締め、体に引き掛けて、修行者の宝冠に頭を包み、強力(ごうりき)というものに導かれて、雲と霧の山の空気の中で、氷と雪を踏んで、登ること32キロ。さらに日月行く道は雲の関所に入るのかとわけも分からず、息が絶え身は凍えて頂上にいたると、太陽は沈んで月があらわれた。

 笹を敷き篠を枕にして横になり明けるのを待ち、太陽が出て雲が消えると湯殿にくだる。

 谷のかたわらに鍛冶小屋というものがある。この国の鍛冶は霊水を選んでそこで潔斎をして剣を打ち終える。月山と銘を切って世に賞賛される。あの龍泉の水に剣を浸すとかかな、古代中国、干将莫邪夫婦の名剣一対の昔を恋しがる。その道に堪能な人はそのことをずっと考えている、その心の浅くないことが分かる。

 岩に腰かけて少し休んでいると、九十センチくらいの桜につぼみが半分開いていた。

 降り積もる雪の下に埋もれて春を忘れない、遅い桜の心。そこに理由はない。

 炎天で梅の花が、そこで香っているような。行尊僧正の和歌のアワレさもここで思い出されて、さらに心が動いた。ただしおおよそ、この山中での下々来訪者の決まり事として「他言する事を禁ず」なので筆をとどめて記さん。


(原文)

 八日月山にのぼる。

 木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里。更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば日没て月顕る。

 笹を鋪篠を枕として臥て明るを待、日出て雲消れば湯殿に下る。谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶霊水を撰て爰に潔斎して劔を打終。月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや干将莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。

 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとどめて記さず。


 宿坊に帰ると阿闍梨からの要望があり、三山巡礼の句を短冊に書く


涼しいな。仄三日月の、羽黒山


雲の丘。いくつ崩れる、月の山


言えんです。湯殿で濡らす、涙だよ


湯殿山。お金の道の、涙です

河合曾良


(原文)

坊に帰れば阿闍梨の需に依て三山順礼の句々短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峰幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな

曾良



33.越後路


 酒田の余波、日を重ねて北陸道の雲を望む。はるばるの思いが胸に満ちて、加賀の街までは520キロと聞く。

 鼠ケ関(ねずがせき)を越えると越後の国に歩む道は改まり、越中の国市振の関所にいたる。この間は九日、暑気と湿気が負担となって神経が参ってしまい、わずらったので出来事は記さない。


文月や、六日も常の夜には似ず


荒海や、佐渡に横たう天の川


(原文)

酒田の余波日を重て北陸道の雲に望。遥々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百三十里と聞。鼠の関をこゆれば越後の地に歩行を改て越中の国市振の関に到る。此間九日暑湿の労に神をなやまし病おこりて事をしるさず。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や 佐渡によこたふ天河




1.(序文)


 月日は百の時代を通り過ぎる客人であり、行き交う年もまた旅人だ。舟の上に人生を浮かべ、馬の口を取って老いを迎える人は、日々が旅であり旅を住居にする。昔の人も、多くが旅で亡くなったのだ。

 自分もいつの年からか、千切れ雲の風に誘われて、漂白の思いがやまない。海辺をさすらい、去年の秋、河の見える荒れ家で古い蜘蛛の巣を取り払った。

 やや年も暮れて「春の立つ霞の空で白河の関を越えよう」とか何か、カミみたいなのがモノに憑いて心を狂わせ、道祖神の招きに遭って、取るものは手に付かず、ズボンの破れを縫い合わせ、被る笠の紐を付け替えて、三里に灸をすると松島の月がまず気にかかって、住むところは人に譲り、杉風の吹く別の所へ移った。


草の戸も、住み替わる時。田舎家


 リレー俳句の「面八句」表紙掲載八作を全部自分で作って、庵の門柱に掛けた。


(原文)

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。



2.旅立ち


 三月弥生も最後の七日、曙の空は朧ろおぼろして、月は明け方で、光がおさまっているものだから富士の峰がほのかに見えて、上野谷中の花の梢はまたいつなのか、と心細い。

 仲の良い限られた人々が夕方から集まって舟に乗って送ってくれる。センジュ(千住)というところで舟をあがると前途三千里12,000キロメートルの思いが胸に充満して、幻のような町の景色に離別の涙を流した。


ゆく春よ、鳥泣き魚の目は涙


 これが手帳の最初だけど、なかなか前に進まない。皆さんが途中各所で待っていてくれて、後ろ姿が見えるところまではと、見送ってくれているようなのだ。


(原文)

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧〃として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

 行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人〃は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。



25-2.岩手平泉


 三代の栄光は一眠りの間で、大門の跡は四キロこちらにある。

 二代秀衡の跡は田野になって、金鶏山だけを残す。まず高館にのぼると、北上川は南部盛岡から流れる大河だ。衣川は和泉の城を巡って高館の下にあり、大河に落ち入る。

 三代泰衡達の旧跡は衣が関を隔てて南部口を差し固め、外敵を防ぐと見えた。さて選ばれし義臣達とこの城に籠ったが、功名ははかなく、あとは草原となった。

 国破れて山河あり。城は春であり草青々と、と被っていた笠を置いて、時間の経つままに涙を流していました。


(原文)

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大河に落入。康衡等が旧跡は衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり。城春にして草青みたりと笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。



14.福島しのぶの里


 明けると、しのぶも地摺りの石をたずねて忍ぶの里に行く。遥か山かげの小さな里に石が半ば土に埋まっている。里の子どもが来て教えてくれる。昔はこれが山の上にあったのが、往来の人が麦草をあらしてこの石を試しているのを怒ってこの谷に突き落とすと、石の面が下向きに伏せたという。そうもあることなのか。

(原文)

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける。昔は此山の上に侍しを往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。



25-1.宮城石巻


十二日、平泉だと決めて、アネハの松やオダエの橋など聞き伝えて、人跡は稀でキジやウサギの行き交う道、どことも分からず、ついに歩き間違えて石の巻という港に出る。黄金花咲と詠んで奉った金華山を海上に見渡し、数百の廻船が入江に集い、人家は土地をとりあってカマドの煙が立ち並んでいる。

 思いがけずこんなところにも来たんだなと、宿を借りようとするが、さらに宿を貸す人はない。ようやく質素な小家で一夜を明かして、明ければまた知らない道を迷いゆく。袖の渡り、尾渕の牧、間々の萱原などをよそ目に見て、遥かな堤をゆく。心細い長沼にそって、戸伊摩というところに一宿して、平泉に到る。その距離は八十キロを超えるくらいだと思う。


(原文)

十二日、平和泉と心ざし、あねはの松緒だえの橋など聞傳て、人跡稀に雉兎の往かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて石の巻といふ湊に出。こがね花咲とよみて奉たる金花山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり尾ぶちの牧まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。



7.那須黒羽


 那須の黒羽というところに知人がいるので、これから野越にかかって直道を行こうとする。はるかに一村を見かけて行くと、雨が降り日が暮れる。農夫の家に一夜を借りて、明けてまた野中を行く。そこに外飼いの馬がいる。

 草刈りの男性にお願いしてみると、農家の人といってもさすがに人情を知らないのではなくて、どうしましょうか、それでもこの野原は縦横に分かれていて、初めての旅の人は道を間違えるでしょう、不安ですから、この馬が止まったところで馬を帰してください、と貸してくれた。

 小さい人が二人、馬の後ろをしたって走る。一人は小さな姫で名前をかさねという。聞き慣れない名前が優しかったので、


かさねとは、八重なでしこの、名なんだな

曾良


(原文)

那須の黒はねと云所に知人あれば是より野越にかゝりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず「いかゝすべきや、されども此野は縦横にわかれてうゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり馬の跡したひてはしる。独は小姫にて名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名成べし

曾良



3.草加


 今年は元禄二年だか、奥羽の長い道のりの歩き旅、ただなんとなく思い立って異国の空に白髪の悔恨を重ねるといっても、耳に触れていまだ目に見ない世界、もし生きて帰ればとさだめなき頼りの末をかけ、その日ようやく草加という宿にたどり着いたのだった。
 痩せた骨の肩にかかっているのがまずくるしい。ただ身すがらに出で立っているのを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣雨具墨筆のたぐい、あるいはさりがたき餞別などをしているのはさすがに打ち捨てられなくて、道中の煩わしさとなるのもまいってしまう。

(原文)

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。



34.糸魚川市振


 今日は親知らず子知らず、犬戻り駒返しなどという北陸一の難所を越えて疲れたので枕を引き寄せて寝ていると、一間を隔てて表の方に若い女性の声が二人くらいに聞こえる。年老いた男性の声も混じって話しているのを聞くと、越後の国の新潟というところの遊女だった。

 伊勢参宮をするというのでこの関まで男性が送って、明日は故郷に返す手紙を書いてはかない伝言などをしているのだ。

 白波の寄せる浜辺にその身を放り出し、あまのこの世をあさましく下って、さだめなき約束、日々の業因がどれだけつたないか、とものを言うのを聞きながら寝入った。

 朝の旅立ちに我々に向かって、ゆくえの知れない旅路の哀しさがあまりに心細いから、見え隠れにでもお跡を追いましょう、衣の上のお情けに大慈の恵みを垂れて縁を結ばせてください、と涙を落す。

 不憫なことではありますが、我々は場所々々で留まることが多い、ただ人が行くのにまかせて行きましょう、神明の加護は必ずつつがなくあるでしょう、と言い置いて出たが、哀れさはしばらくやまなかった。


(原文)

一振

今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめてはかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日〃の業因いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へと泪を落す。不便の事には侍れども、我々は所〃にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべしと云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。



26.大崎、尿前関


 主人が言う。ここから出羽の国へは大山にさえぎられて道もはっきりしないので、道案内の人を頼って越えるべきとの話だ。
 それではと人を頼むと、屈強の若者が反り脇差しを横たえ樫の杖を携えて我々の先に立ってゆく。今日こそ必ず危ない目にも遭おう日だが、辛い思いをして後に付いてゆく。
 主人の言葉に違わず、高山はしんしんとして鳥の声ひとつ聞かず、木の下は藪が茂りあって夜をゆくようだ。雲の端につちふる気持がして笹のなかを踏み分け踏み分け、水を渡り岩に躓いて、肌に冷たい汗を流して最上の土地に出た。
 あの案内をした男性が言う。この道は必ず思いがけないことがある、何事もなくお送りできて幸運であったと、喜んで別れた。

(原文)

あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我我が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森〃として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて、仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。



お読みくださり、ありがとうございました🙇

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